戸舞家の人々

ドイツ文学者、戸舞賛歌とその家族たち

ドイツ文学者宅の実情 その4

「・・・中学のとき、友達と町に行って洋服見たりしていたんだ。そうしたらウチのお父さんにバレて、すごく怒られた。ああいう連中とは付き合うな、本読まんヤツとは付き合う必要はないって・・・。」
というと、人によっては
「そりゃドイツ文学者だもん、そのくらいいうよ・・・。」
という人がいたりするのだ。これ以上この人と付き合い続けるとケンカになりそうだとおもった。それで距離を置いた・・・。
 時にはウチの二階に棲息していたドイツ文学者の遺作の長編小説「石久野電鉄株式会社が販売する足袋」を呼んで感銘してはやってくる初対面の方々が居たりする。そういう方々に限って私に
「お前があの高名なドイツの娘かぁ・・・情けなくなるぞ。」
なんぞという失礼なことを言う方々が居たりする。そのときは従順に応じているものの、後から癪に障って内容証明を送りつけたりした。

 ちなみに「石久野電鉄株式会社が販売する足袋」という小説は「教養小説」という新しいジャンルを開拓したとされた小説だ。「教養小説」とは文字通り教養とよばれる知識をちりばめた小説で、しばし忠実な史実に基づいて書かれた小説ということになっている。この「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」という長編小説も中世ドイツの史実に基づいて書かれた小説で、職人見習いの少年が領主のお姫様に片思いするという話で大変青臭いオハナシだ。ただ一つ興味深いことがあり、この石久野電鉄株式会社の販売する足袋という長編小説を「すばらしい小説だ」と評価している方々は中野廣策(ウチの二階に棲息していたドイツ文学者死去後にウチを乗っ取りに裏切り者のどろぼう大学教授)のことを「りっば゜な知識指導者」だと評価していた。がその後の中野廣のやくざまがいの言動などを知ると、「中野廣策のことを思い出すと不愉快だ、あんなどろぼう大学教授ことは思い出したくない」という。一方「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」を青臭くてつまらない小説で義理で読もうと思ったけど途中でやめちゃったという人は最初から中野廣策がどろぼう大学教授であることがわかった。つまりつまらないお話をすばらしい小説と自分に思い込ませている人は、どろぼう大学教授である中野廣策のことをすばらしい知的指導者だと自分に思い込ませているのだろう。

 しかしウチの二階に棲息していたドイツ文学者はあの大変つまらない小説「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」という諸説を実に長い歳月をかけて、私たち家族を大いに巻き込んで強引に有無を言わさずつき合わせて書き上げてきた。こういうお話を書くということはこのお話の世界にどっぷりと浸かるわけであり、そういう環境下にあってはたとえば
「今日は三平ストア高円寺店でコロッケが三つで百円だから・・・」
などというオハナシをすることはタブーである。中世ドイツの世界にどっぷりと浸っているのに三平ストアのコロッケといった世俗が入り込んではならないのである。

 ところでこの「石久野電鉄株式会社が販売する足袋」というのはイカにも書店古書店図書館しかしらないウチの二階に棲息していたドイツ文学者らしいオハナシだ。ウチの二階のドイツ文学者は書店古書店図書館以外知らない方だ。本の中の知識の世界しか知らない方だった。この本の中の知識を散りばれたのがこの世界的名著「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」である。とにかくこの世界的名著「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」を執筆中に有無を言わさずに無理矢理この「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」の世界につき合わされた。この教養小説長編小説の舞台は中世ドイツだ・・・。といってもウチの世界のドイツ文学者はドラえもんにタイムマシンを出してもらって実際に中世ドイツに生きてきたわけではない。本の中の知識でかってに中世ドイツという脳内劇場を作ってきただけの話だ。ウチの二階のドイツ文学者の実体験というものは乏しく、書店古書店図書館以外知らない人だ。図書館のトイレがどこにあるのか、図書館の売店では何が売られているかぐらいしか知らない。後はすべて脳内劇場での疑似体験のみになっている。

ウチの二階のドイツ文学者の書いた「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」を無理して呼んでいると、むりやのこの大変つまらない「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」執筆中のイヤーな気分が再現される。ウチの中は重苦しく、たとえば「三平ストア高円寺店でコロッケが三つで百円」という話しは絶対にできない。大変つまらないうちの二階のドイツ文学者の史実に基づいた教養小説「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」の世界に付き合わされるこれは大変な苦痛なのだ。本来なら
「やってなんねぇよ」
といいたいところだかそんなことを行ったら大変な事になる。怒鳴りつけられて殴る蹴るの暴行を受けたあげく
「ここから出て行け」
といってまったくの寒空の下に投げ出されてしまう。それが恐いからこのまったくつまらないオハナシに付き合っていただけの話なのだ。実はウチの二階のドイツ文学者が死去した後、中野廣策というどろぼう大学教授がウチにきて、わたしに遺族としての権利を中野廣策に譲渡してここから出て行けと迫った。それがイヤでここに居たければ中野廣策のことを尊大な知的指導者として認め、中野廣策の忌々しい学問と文学のために献身的になれと迫った。そんな中野廣策(どろぼう大学教授)に私は何できなかった。中野廣策にいわれっぱなしだった。どうして中野廣策に何もいえないしいわれっぱなしなのだろうと思った私はふとウチの二階に棲息していたドイツ文学者に憤りを感じた。
「『石久野電鉄株式会社の販売する足袋』なんていう青臭い小説を書くから中野廣策がどろぼう大学教授だということがわからなかったんだ、あの人は・・・」
って腹立たしくかんじたのだ。そのとき、私が世界で一番嫌いな長編小説『石久野電鉄株式会社の販売する足袋』にどうして私がどうぼう大学教授である中野廣策に名に言えないでやられっぱなしなのか。その秘密をとく鍵があると感じたのだ。それで世界で一番嫌いな長編小説「石久野電鉄株式会社の販売する足袋」を読んでみた。息が詰まりそうな不快感に襲われた。そしてわたしはこの家が自分の家であるという権利の自覚を許されなかったことに気がついた。だからこの私の生まれ育った家に対する権利を中野廣策が主張しても私は出来なかったのだ。
 そのことに気がついた私は今度は私が中野廣策の家に関する権利を主張して中野廣策を中野廣策の家から追い出しては中野廣策をまったくの寒空の下に投げ出してやろうとおもった。目には目をだ・・・。そして中野廣策のところに真夜中に電話した。
「あ、その話は後ほど・・・」
とかいってお茶を濁された。それでも私は容赦なく中野廣策に自分が中野廣策ややられたことを同じ事をしてやらずには気がすまなかった。目には目をだ。こうしそて中野廣策は四半世紀暮らしたこの大脳県雪脳市から誰にも転居先を継げずに転居していったのである。
 中野廣策が勤務していた南河内大学(ウチの二階のドイツ文学者も勤務していた大学)からも突然去っていたので、南河内大学の方々はびっくりしたという。また南河内大学前にある質屋「久本」でも中野廣策がたくさんのものを質草に入れていたといわれている。中野廣策は私からカネを巻き上げることを前提で購入したルイヴィトンモノグラムドゥービルやロレックスデイジャストコンビなども南河内大学前の質屋「久本」に質草としていれていた。この質屋は「みすずちゃん」という看板娘が居ることでも有名だ。

ドイツ文学者宅の実情 その3

私はハチノス小学校を卒業してアサ中に入った。

 さて、アサ中にはいって私はB部に入った。部の顧問のエフ先生もT先輩たて血も私を後輩として受け入れてくれた。だから私はこの時
「生きてて良かった!」
と実感した。これからはこの部の先輩たちと一緒に人生を生きていこう・・・と思った。先輩血は私をだ部活のあとに大判焼き屋に連れていったれた。ここで食べた大判焼きというより先輩たちと一緒に居る雰囲気は今でもおぼえている。わたしにとってかけがえの無いものだった。
 がウチの二階に棲息しているドイツ文学者が私がなんとなく変わったことを不快に思っていることはまもなく感じ始めた。衣替えの初夏の頃、家の中に重苦しい空気が漂い始める。ウチの食堂はイスとテーブルなのだけど、ドイツ文学者はどういうわけかイスの上に正座するという習性があるのだ。食堂にドイツ文学者がくるとしーんとする。
「きょう学校で・・・。」
とか
「なんかこのごろ暑いね。」
といっただけでもドイツ文学者が
「うるさいっ!」
ととなる事があるからだ・・・。で食堂にドイツ文学者がきたからしーんとした。するとドイツ文学者はこういったものだ。
「お前が入っているB部、やめたほうがいいな・・・。」
つまりわたしに部活を辞めろというものだった。こうなることはわかっていたる私がエフ先生や先輩たちとの世界にいってしまい、ドイツ文学者の世界・・・文学や学問やベートーベン音楽や登山の世界・・・から離れていってしまうことが淋しかったからだ。現にその当時、ドイツ文学者は南河内大学を辞めていて、南河内大学時代の同僚のヤマミツなどもドイツ文学者から離れてしまっていたからだ・・・。
「・・・。」
「わかっているな・・・。」
いう事が聞けなければこの家から出て行けということだった。私はドイツ文学者のいうとおりにするしかなかった・・・。


夕日が赤く染める体育館前、私は顧問のエフ先生と膝を並べていた。
「・・・どうしてもやめるのか・・・?先生にだけは訳を話してくれないか・・・。」
というエフ先生に何もいえなかった。
「・・・わかった、もう先生引き止めない・・・。」
とエフ先生は諦めたように言う。それを見ていたT先輩は
「・・・やめちゃうの・・・。」
とエフ先生にいう。エフ先生はだまって首を縦に振る。
「ねぇ本当は辞めたくないんでしょ。どうしてやめちゃうの・・・?」
とT先輩に言われても私は何もいえなかった・・・。

そしてわたしは部活をやめ、授業が終わるとすぐに家にかつ得てきた。二階からはベートーベン音楽が聴こえてくる。私が帰ってきたことを知ると、ドイツ文学者は二階から降りて来て、便起用はしているかどうかとしつこく聞く。まるでストーカーみたいだ。とにかくイヤだった。後からわかったけど、ドイツ文学者は私を自分の学問や文学の弟子にするつもりだったらしいし、私を自分の母校である会津若松白虎大学文学部独文科にいれるつもりだたらしい。そして中野廣策の長男珍簿固クンと結婚させるつもりだったらしい・・・。一方の私は
「アー死にたい、そしてよその家に生まれ変わりたい・・・。」
と思うようになった。その後どうせ死ぬんだったらドイツ文学者も道連れ巻き添えにしてやろうと思うようになったのだけど・・・。


その頃うちには愛犬ブルックナーがいた。ドイツ文学者はブルックナーを二階の書斎に上げていていた、そして毎日午後ブルックナーの散歩をしていた。この散歩に中野廣策がどうこうすることもあったし私も同行させられることもあった。とにかくこの頃からウチの雰囲気がまったくつまらなくなった。ドイツ文学者はいつでも二階でベートーベン音楽をなながしている。私はドイツ文学者の顔色を伺い、怒鳴られないようにするしかなかった。一階の東南の自分の部屋に居ると、ドイツ文学者がノックもしないで入ってきて
「これでも読んで読んでみるといいろう・・・。」
といってケイストナーの「飛ぶ教室」なんぞという本を持ってくる。もちろん読む気にはならないるしかしドイツ文学者は
「このくらいの本は読んでいないと話にならんぞ」
なんぞという。
「あーこんな男、死んでしまえばいいのに・・・。」
とわたしはこのこの頃かに思ったものだった・・・。

 そして二年生になる。中体連なの応援でB部のT先輩たちと一緒になった。また大判焼き屋にいった。そしてウチのクラスのYちゃんやKちゃんと仲良くなった。放課後よく教室でドイツ文学者が嫌いそうな「週刊セブンティーン」を身ながらきゃぴきゃぴ喋った。そして私も生き生きとしてきた。一方ドイツ文学者は私が自分の世界・・・文学や学問、クラシック音楽や登山の世界から離れては友達との世界に去っていくことに警戒始めていることもわかった。




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そんなある日、私はみんなと繫華街に行った。みんなはGジャンにショートパンツといった格好で町に繰り出したけど、私にはそんな服はなかったので、学校のセーラー服で行ったと思う。それで私同様細身のKちゃんがわたしに自分のGジャンをかしてくれた。セーラー服のカラーをGジャンの外に出して歩いていた。何か町が生き生きと輝いて見えたものだった。が大型書店大脳堂から出てきた細身長身端正顔のかりあげのおじさんを見て全身が凍りついた。うちの世界に棲息しているドイツ文学者だった。思い切り知らん顔をした。 バレていないと思ったからだ。
 しかししっかりとバレていた。家に帰る家の中の雰囲気が異様に重苦しかった。ドイツ文学者は食堂に来ても食べ物に箸をつけない。
そして食堂から席を立つとき、
「おい、山靴履いて待っていろ!なんでも言わせるなっ!」
とお得意のフレーズが飛び出した。
私が玄関で登山靴を履いて待っていると、まもなくドイツ文学者も降りて来て、靴を履きはじめた。そして
吉幾三(よし、行くぞっ)、だまってついて来い!」
という。だまってこの男についていくしかない。この男は私を近くの里山に連れて行った。
登山道散歩道をのぼるのではなく、道なき道・・・薮を漕がされる。あいつのお得意の藪漕ぎだ。思い出したくもない。その忌々しい山の斜面を登ったり降りたりしているうちに山頂のジン者についた。ドイツ文学者は
「どうだすごいだろう。」
という。藪の中を行軍しても山頂の神社についたことを自慢したいらしい。がドイツ文学者は私に
「さっきお前と一緒にいたヤツは友達か?」
ときく。わたしは黙ってうなづく、。するとドイツ文学者は
「ああいうヤツとは付き合うな、わかったな。」
という。いう事が聞けなければこの家から出て行けというわけだ。わたしはすべてを諦めるしかなっかた。この家を追い出されてはまったくの寒空の下に投げ出されるしかないのだから・・・。遠くのネオンが悲しげに見える。
「一度死んで来世に希望をつなごう、今度生まれ変わったら普通の家の子にうまれてこよう。こんな男とは赤の他人になって・・・。」
という思いで家路に急いだ。

 家に付くと居間兼食堂は静寂が支配していて、時計の音だけがカチッカチッと響いていた。ドイツ文学者は居間の本棚を指差しては
「ここにはこんなにいい本があるじゃないか・・・。」
と笑顔で言う。なるほど、この本棚には詰まらなそうな本ばかりがびっしりと詰まっていた・・・。がこの瞬間、わたしはドイツ文学者に受け入れられた・・・と感じた。
「これでも読んでみろ。」
といって一冊の本を取り出した。ロマンロランのジャンクリストフという本だった。本を紐解いてみても詰まらなかった。それで本を閉じてしまった。するとドイツ文学者は
「何も焦ることは無い。こういう本はじっくりと時間をかけて読むものだ。」
たわしはこのドイツ文学者が支配する居間の本棚に運命も魂も閉じ込められてしまった瞬間だった。この本棚以外に関心を持ったらこの家から追い出されてまったくの寒空の下に投げ出されるのだ・・・。そして当然私は友達との世界から引き離されてドイツ文学者の世界に引き込まれた。ドイツ文学者は学校から帰ってきたわたしに
「おい、ブルックナーの散歩に行くからついて来い。」
という。するとブルックナーまの散歩に中野廣策も合流した。ドイツ文学者は中野廣策と私に
「おい、世界中に核弾頭が一体何発あると思うか?」
なんていうつまらない話を始めた。

ドイツ文学者宅の実情 その2

 ところでドイツ文学者という生き物の家庭では他にも暴力と脅しによる支配がなされていたらしい・・・。あるドイツ文学者宅では息子が後になってムエタイをやって父親であるドイツ文学者を殴りなおしたということがあったという。にしてもいつの頃からかウチの二階に棲息していたドイツ文学者は私にとある少女を
「友達として相応しいだろう・・・。」
とあてがった。
彼女はエム子ちゃんといい、わたしはまだ会った事はなかった。なのに友達として相応しいだろうというのだ。
ドイツ文学者の洗脳下の私は言われるがままにバスを乗り継ぎ、とある町にきた。そこから公衆電話でエム子ちゃんのところに電話すると、何度かあったことあるオバサンが
「いまエム子を向かいにやるから、バス停の前で待っていて・・・。」
という。その日は梅雨寒で小雨が降っていたけど私は傘をもっていなかった。そしてもまもなく不思議な少女が現れた。薄いクリーム色っぽい長袖のポロシャツに紺ブルマの少女だ。ヘアスタイルはサザエさんのワカメちゃんっぽい。彼女がエム子ちゃんだった。町中でブルマなのだ(^^;)(;^^)

どういう会話をしたか覚えていないけど、エム子ちゃんは傘を二本もってきていた。小雨もやんだので傘など差さなかったが、バス停からエム子ちゃんの家に行く途中、後ろには私たちと同じぐらいの年の少女がいた。Gジャンにショートパンツ姿だ。
「あー私もこんな格好してこの子たちの友達の一人になりたい・・・。」
と思ったものだ。がこの2人は私たちを追い抜き、ちらと後ろを見て
「見た?」
「見た。」
「ブルマ ブルマ」
といってくすくす笑っていた。それは笑うなというほうが無理な話だ。紺ブルマで街中を歩いているんだから・・・私だって紺ブルマのエム子ちゃんと一緒に居るのが恥ずかしかった・・・。そういう私も学校の制服だったけど・・・。

こうしてなんとも無機質的なティーンズをすごさなけばならなっかた。エム子ちゃんの家に付くと、エム子ちゃんのお父さんがジャージのズボンにカッターシャツというへんな格好で本を読んでいた。ゲーテのファーストでは・・・とかいう話をしていたけど、当然詰まらなかった。エム子ちゃんのお父さんも私とエム子ちゃんとの友達になることを喜んでいる様子だった。お互い距離があるので文通でもしたらどうか・・・という・・・。たしか当時私は中学三年生だったと思う。ウチの二階に棲息しているドイツ文学者という生き物といい、エム子ちゃんのお父さんといい、どういう神経をしているんだろう・・・?

ところで私が中学生になると一階の東南の部屋を私の個室としてあてがわれた。しかしそこには木製の大きな本棚があり、「魔女狩り・・・キリスト教史上最大の汚点」などのドイツ文学者の蔵書が並んでいる。ドイツ文学者は当然のようにノックもしないでこの部屋に入ってきてはこの本棚の中でしばらく本を立ち読みしていたりする。時には勉強机に向かっているわたしのところに来ては勉強机の本棚に並んでいる教科書やノートを私に断りることなく見てはその内容についてアレコレ上から目線で決め付けるように批評したりする。これじゃ個室でもなんでもないのだ。いつだったか私が購読していた学研の学習情報誌「中二コース」についてもパラパラと見ては
「学研もこんな下らない本だしているのか・・・こんなの取るのやめちゃえ」
との一言で購読中止となり、バックナンバーは破棄することになった。これと同様に「暮らしの手帳」も購読中止およびバックナンバー破棄となったことは有名だ。

ということでドイツ文学者宅にはドイツ文学者という生き物が気に入った印刷物以外存在しなくなった。晩餐時の光景だって信じ取られないほど忌々しいものだ・・・。まずドイツ文学者が
「いち」
と指示する。だれかが一チャンネル(NHK総合テレビ)にする。しかしドイツ文学者は気に入らないらしい・・・それで今度は
「さん」
と指示する。しかしドイツ文学者は気に入られないらしい。
するとドイツ文学者は
「消せ」
と指示する。そしてすっと立ち上がって巨大本棚のなかのオーディオ装置を弄る。すると退屈なベートーベン音楽が流れてくる。そしてドイツ文学者は朝日新聞を取り出し、その岸ぜを朗読する。この記事の朗読も真面目に聞き入らなければならない。聞いていないと
「おい、聞いているのか?」
と来る。でドイツ文学者が記事の朗読が終わると、その記事に関するえらそうな上から目線の批評を聞かせる。時にはピンクレディをアメリカの歌手といったらしてまったくバカみたいなのだけど固唾を呑んで
「はっはー。」
と聞き入らなければならない。世間一般ではピンクレディは静岡出身の根本美鶴代と増田恵子の2人組ということになっているけど、ドイツ文学者ではアメリカ出身の歌手と信じられてきた。
さらにドイツ文学者は本棚かすら本を取り出し
「おい、これでも読んでみろ。」
という。私も何冊もドイツ文学者に本を読むようように指示されたけど、本来活字がダメなので一冊も読んだことはない・・・。

 にしてもかつてドイツ文学者だった人物は「ウチのお父さん」であり南河大(南河内大学)のドイツ語の先生だった。だから
「うちのお父さんは南河大のドイツ語の先生」
であり
「ドイツ文学者」
なんぞてはなかった。南河大にはドイツ文学科などは無いからうちのお父さんはずっとドイツ語の先生であり、ドイツ文学者にならないはずだった。
がわたしか小学校六年生のころだと思う。ウチのお父さんが母校である会津若松白虎大学の大虎清正という人から老舗出版社「アソコ出版」からドイツロマン派の散文詩人「オメコスリナー」の新訳を出すという話があった。実はドイツ語の先生からドイツ文学者に変容するにはたとえば会津若松白虎大学独文科の教授になるか、でなければアソコ出版やヌメリ社などの老舗出版社から古典的名作と呼ばれる文学作品の新訳を出すことで「ドイツ文学者」として認められるらしい・・・。それまではただの南河内大学のドイツ語の先生なのだ・・・。少なくとも私が小学校六年生のときはウチのお父さんは南河内大学にいた。その頃から例のオメコスリナーの新訳とかをやっていてドイツ文学者になりかけていたるそしてまもなく南河内大学をやめてウチで文筆業に専念するようになった。朝から晩までウチの二階に居て、朝から晩までベートーベン音楽を流し、そして朝から晩まで私たちを支配していた・・・というわけだ。
 私が小学校六年生にまってまもなく、クラスの町田から転向して来た女の子がいた。ジーンズの上下を着ていて髪が長い女の子だったけど、彼女と仲良くなり、夏休みに彼女の家に遊びに行ってアイドルの歌本を借りてきた。その当時からドイツ文学者は非クラシック音楽を蛇蝎の如く嫌っていたのでこういうものを私が見ていただけでも激怒することはわかっていた。だから見付からないように机の下に潜り込んでみていたが、見付かってしまった。その晩のことは今でも覚えている。ドイツ文学者は
「お前もこういうものを見ていたのか!」
と怒鳴りつけ、
「こういうものはこうしてくれる!」
と破いてクズカゴに入れてしまった。そしてわたしを平手打ちした。私は友達から借りていた愛でドルの歌本を破き捨てられたので思い余って台所から包丁を持ちだし、ドイツ文学者めがけて
「殺してやる!」
と突進していった。ドイツ文学者は間一髪のところで包丁を交わすと、そこまま駆け足で二階に上がっていった。この時の重苦しい雰囲気は今でも覚えている。母は私を連れて藤沢の実家に帰ることを考えたという・・・。
しかし真夏の夜のこの騒ぎには隣近所にも知れ渡ることになった。この近所ではウチの二階の霊長類はドイツ文学者とではなく「キチガイ父ちゃん」として有名になったのだった・・・。

このころになると、かつてうちに来ていた南河内大学の同僚はほとんど来なくなった。うちの二階の霊長類が
「アイツとはもう付き合わん]
なんぞとよく言っていたのを覚えている。こうして気が付く当地に来るのは中野廣策だけになっていた。中野廣策はウチから徒歩で十分足らずのところに住んでいるけど、南河内大学でウチの二階の霊長類と一年度同僚だった男だ、そしてウチの二階の霊長類が死んでから十日後、私は今度はこの中野廣策に
「殺してやる。」
と叫んで包丁を突きつけることになるのだけど・・・。

ドイツ文学者宅の実情 その1


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いつの頃からか、私の生まれ育った家の二階には『ドイツ文学者』という獰猛な霊長類が棲息していた・・・。
この霊長類は大変危険で、普通だったら何もキレることがないようなことでもすぐキレて
「うるさいっ!」
と怒鳴りつける。この
「うるさいっ!」
という言い方には独特ないやらしさがあって、この霊長類が
「うるさいっ!」
と怒鳴るとあたりの雰囲気はあっという間に色褪せ、乾き、そして無機質的になる。
「うるさいっ!何度も言わせるなっ!」
ドイツ文学者からは荒涼とした石灰のようなオーラが漂う。家の中すべてが『つまらなく』なる・・・。

ドイツ文学者という霊長類が「うるさいっ!」と怒鳴ったら理屈抜きに静かにしなければならない。しーんと静まり返った部屋の中にボンボン時計のカチッカチッという音だけが響き渡る。この音にはドイツ文学者は「うるさいっ!」と感じないらしい。

ドイツ文学者が
「うるさいっ!」
と怒鳴ってもしーんと静まり返らない場合、あるいはドイツ文学者に反発するようなまなざしを向けた場合、ほぼ間違いなく物理的な暴力へと発展する。ドイツ文学者という霊長類は拳で殴る、ケリを入れる。そこらにあるものを投げつけるなどなど物理的な暴力へと発展するこの霊長類は一度キレると終始がつかない。
「うるさい、何度も言わせるな。目障りだ!ここから出て行け!」
そのようす、まさしくキチガイだ。私たちはただひたすら謝り、許しを請うしかない。そしてドイツ文学者がキチガイぶりが一通り収まると、このドイツ文学者という霊長類は二階に上がっていき、そしておきな音でベートーベン音楽を流す・・・。
わたしはこうして人生初期、このドイツ文学者という霊長類が暴力と脅しで支配する家に居た。
「どこか別な家に生まれ変わりたいなぁ・・・。」
とか
「どこか遠くに行きたいなぁ・・・。」
といつでも思っていた。二階からベートーベン音楽が流れてくる。隣近所から少しでも流行り歌が聞こえてくると、このドイツ文学者という生き物は
「うるさいっ。」
と嫌な顔をするくせに、このドイツ文学者の流しているベートーベン音楽は夏場などは数軒先からも聞こえてくる。しかも朝から晩まで流している。このベートーベン音楽のほうがずっと音量は大きいて迷惑だとしたらドイツ文学者のベートーベンの法が迷惑なのではないか・・・と思うけど、ドイツ文学者という生き物はベートーベン音楽は人類最高の発明だと思い込んでいる。そして流行歌しか聴かない方々に人類最高の発明であるベートーベン音楽を利かせてやっているのだというスタンスなのだからどうしようもない・・・。

さて、ドイツ文学者宅の晩餐だけど、テーブルに上がるものは特段変わったものはない。ドイツ文学者だからジャーマンポテトにアイスバイ゛ン(ドイツ風豚足の煮込み)、ドイツソーセージなんていうことはたまにはあっても普段は質素だ。というのもドイツ文学者宅では本をたくさん買うので食費を削らなければならない。わたしもよく近所のお姉さんのお古を着ていたものだ・・・。ましてやドイツ文学者のガレージにベンツなどが収まっているはずはない。ベンツどころかカローラもない。ドイツ文学者は丸石自転車で書店古書店図書館を廻るのが常だ・・・。

 こうやって暴力脅しによる支配下では家族はドイツ文学者という生き物から逃げ出そうとするのが自然なことだ。ドイツ文学者はそのことも織り込み済みだ、だから家族が自分の知らないところで誰かと接点を持つことに異様に警戒している。当然私にも友達を作らせなかった。家族の対人関係はすべてドイツ文学者という生き物経由になるのだ・・・。

戸舞家の人びと 10 戸舞家を我が物顔にする人たち

 戸舞賛歌死去後、中野廣策は二年近く戸舞家を支配してきた。結局中野廣策は私たちの運命に深く入り込んでしまった・・・。ということは戸舞賛歌というわがままなドイツ文学者と、長女である私との間に絡み合う運命というものに巻き込まれてしまったことになる。中野廣策がこの町を去ったのを知ってわたしは千葉県市川市に永らく身を寄せていた安アパート「ガラスのわら人形荘」を引き上げた。豹柄のブラウスとか黒い革のショートパンツなどを袋に入れて破棄した。そしてベランダではバオバブの木が枯れていた。中野廣策関連のことで永らくガラスのわら人形アパートを空けていたために水をあげることが出来ず、枯れてしまったものだ。このバオバブの木、私が外国放浪の旅から帰国して初めてこのガラスのわら人形荘にきたその日に駅ビル内の花屋で買ったものだった。その当時はまだ双葉だった。私と同じぐらいの年の女性が店員さんでその人がキレイに包んでくれた。以後時折枝を切りつけては鉢増しして育ててきた。
 床に敷いていたウッドカーペットも刻んでゴミに出した。下北沢で買ったプロ用のミルクパンなどはもっていった。このミルクパンで私は毎日ミルクティを入れたりミルクココアを入れていたのだ。あとは少しつづ買い足していった食器なども梱包して郷里へと持ち帰った。こうしてガラスのわら人形荘が次第に空っぽの部屋になっていく。戸舞賛歌に口答えしたために生まれ育った戸舞家から追い出され、しかしその一方でやたら戸舞賛歌の悪口を言い触らされないようにとそれでも戸舞賛歌に縛られつづけてきた。戸舞賛歌の知らないところで誰かと接点を持つことを戸舞賛歌は極めて恐れていた。だから私は誰とも挨拶程度以外の付き合いは持ち事はできなかった。
 そして部屋が次第に空っぽになる。調理器具と食器、そしていくつかの洋服などだけが残った。そして中野廣策が去ったあとの春、私はようやく自分の生まれ育った家に帰ることができた。もう家の中でテレビを見ても雑誌を見ても、そして世間話をしても
「うるさい!」
と怒鳴る人は居なかった。戸舞賛歌の書斎がある二階に上がっても怒る人も居なかった。居間までずっと上がることの許されなかった二階へと通じる階段を登ってみた。一歩一歩足を踏みしめて・・・。そして階段の踊り場まで上り詰めた。踊り場の窓から外の景色が見える。この窓から外を見たのは本当にもう何十年ぶりのことだろう・・・。思い出せばまだこの家が通の家庭だったあのころ、この窓から北斗七星やさそり座が見えたものだった・・・そんな時代がようやく戻ってきたのだ・・・。
そして戸舞賛歌の書斎へと通じる分厚いドアを開ける・・・。もう戸舞賛歌が好きなベートーベン音楽は聞こえてこない・・・。なにか不思議な懐かしさを伴う静寂が戸舞賛歌の書斎/支配している。
「おい、そこでなにやっているんだ。入るな。」
という中野廣策の声が背後から聞こえてきそうな気がしてならなかった。ここで躊躇したらまたこの家は中野廣策に乗っ取られ支配されてしまうだろう・・・。わたしは戸舞賛歌の書斎に入り、そして室内を見渡した。床から天井までの本棚には洋書がびっしりと並んでいる。ベートーベン音楽が溢れていたオーディオ装置は沈黙したままだ。そしてわたしはこのオーディオ装置で、子供のころのわたしに戸舞賛歌が聞くことを禁じたアグネスチャンやキャンディーズの曲を流した。背後から戸舞賛歌や中野廣策が睨みつけているような気がしてならなかった。わたしの中ではまだ戸舞賛歌が生きていた私を支配していた。わたしの中で中野廣策もまだこの家に居てこの家から私を追い出そうとしていたことを感じた。しかしそこでひるんでいたのではすべてが元の木阿弥になってしまう・・・。

 その年、糸瓜を植えた。かつて糸瓜を植えて蔓を絡ませ、夏には糸瓜がぶらんぶらんぶら下がっていたのを思い出したからだ。まだこの家が普通の家庭だったころの思い出だ・・・。そして冬が来た。電話が鳴った。出ると湊周二だった。
「何でアンタそこに居るの?」
と湊は私に言った。
「何だって!」
わたしは憤りを感じた。しかし湊周二は
「あんたはそこ出て東京に行ったんじゃないの、何で居るの?」
という口調だ。私が絶句していると湊周二は
「じゃぁねー。今スキーしに来ています、これからそっちに行きますから・・・。」
という。つまり湊周二がウチに来るから接待しろということだった。ということでビールやカマンベールチーズ、ローストビーフを調達してくると、まもなくタクシーが止まって湊がきた。もちろん手ぶらだ。手ぶらでやってきてはタダで飲み食い、知識自慢経験自慢得意げに聞かせるという湊スタイルがはじまった。私は蚊帳の外に出されて東側の自分の部屋で港の騒ぎ声を聞いているしかなかった。
「あの男も私をここから追い出そうとしている・・・」
とおもうと、殺害しなければならないと感じた。やがて湊がトイレに行った。
「湊周二、死んでしまえ。」
気が付くと私は湊に包丁を突きつけていた。湊の表情は凍り付いていた。

「あ、ボクホテルに戻りますから・・・タクシー呼んでください。」
という湊に私は
「自分で呼びなよ。」
といった。すると湊はケータイを取り出し自分でタクシーを呼んだ。そしてまもなくタクシーは来て湊は消えていった。私が港を見たのはこれが最後だ。その後湊は二、三人でスキーをしに来たが、ウチに来ることも連絡することもなかった。がしかしインターネット上で戸舞家の実情などをアップードすると湊から脅迫された。湊周二はもう戸舞家には寄り付かない代わりにネット上などで戸舞賛歌が尊大なドイツ文学者であるイメージを壊すようなことは一切許さないということだった。それで戸舞賛歌や戸舞家の実情は公開できなかった。しかし湊が病で死去したことを知ったのはそれからまもなくだった。だからこうやってインターネット上に公開できたのだ。

湊周二の死去を受けて、また一つ戸舞家は「ドイツ文学者、戸舞賛歌」という呪縛から解放され、普通の家庭に近づいた。考えてみれば付き合いというものが極めて少なかった戸舞賛歌かと付き合いがあったのは中野廣策と湊周二ぐらいらしい・・・。この二人が自由に戸舞賛歌の書斎に出入りできたし、戸舞賛歌死去後も我が物顔で出入りしていた。ちなみに戸舞家の玄関には一年中戸舞賛歌のスキーが置いてあり、戸舞賛歌死去後も湊周二がそのスキーを指差して
「このスキーはこのままここにおいて置いてください。」
なんぞと言っていたが、湊周二が死んだという報せを受けた途端、粗大ゴミに持っていってもらった。こうして戸舞家はしだいに「あのころの我が家」に近づいていった・・・。



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↑湊

戸舞家の人々 9 戸舞家の秘密、戸舞賛歌の権力の根源

その中学二年の初秋、わたしもようやく友達との世界の中に生きることが出来た。しかし私に友達が出来ること、その友達の世界に行き来することを戸舞賛歌が面白くなく思っていることはわかっていた。いずれ戸舞賛歌は私に友達づきあいすることを許さず、クラシック音楽や文学といった戸舞賛歌の世界に付き合わせようとするだろう・・・ということがわかっていた。わたしは戸舞賛歌の世界が大キライに感じ始めていた。

 その被、私は戸舞賛歌に黙って友達と繫華街に出かけていた。友達は週間セブンティーンから出てきたような格好をしていたけどわたしはそういう服がなかったのでカ学校ジャージで出かけた。友達のGジャンがすごく羨ましい。が戸舞賛歌はGジャンなんていうものが大嫌いだった。自分の嫌いなことを他人にも許さず、自分の好きなことは他人にも押し付けてくる当のが戸舞賛歌の特徴だったからだ。
 友達が私にGジャンを貸してくれた。学校のジャージの上にGジャンを羽織ると心が弾んで
「生きていて良かった・・・。」
と実感した。しかその刹那、向こうから染みで長身の歌舞伎役者みたいな端正顔のオジサンが目に入った。普通のオジサンとは違う独特の雰囲気だ。戸舞賛歌だった。全身がこおりついた。そして思い切り無視することにした。

 ・・・家に帰ると、家の中の雰囲気は何か今までになく重苦しかった。夕食時も戸舞賛歌はまたく箸をつけない。そして食卓を離れるときに戸舞賛歌は私に
「おい、山靴履いて待っていろ。何度も言わせるな。」
とお得意のフレーズが始まった。戸舞賛歌のいう通りにしなくちゃならない。私が玄関で登山口を履いて待っていると、戸舞賛歌も二階から降りて来て登山靴をはいた。そして
「よし、行くぞぅ。(吉幾三)黙ってついて来い。」
とお得意のフレーズが出た。夜の道を戸舞賛歌についていくと、戸舞賛歌は川を渡ってそして里山の麓まできた。さらに登山道ではなく道ではない薮に戸舞賛歌は入って言った。私も戸舞賛歌についていくしかなかった。戸舞賛歌は藪の斜面を登ったり下ったりしている。たわしもただ戸舞賛歌についていくしかなかったル戸舞賛歌がお得意の藪漕ぎだ。やがてわたしと戸舞賛歌は山頂の神社の境内についた。
「どうだ。」
と戸舞賛歌は得意げに言う。藪の中を行軍してもちゃんと山頂に着くことが戸舞賛歌が自慢らしい。そして戸舞賛歌は私にこう言った。
「さっき一緒に居たのはお前の友達か・・・。」
そういう戸舞賛歌にわたしは
「うん。」
とうなづいた。
「ああいうヤツとは付き合うな。わかったな。」
と戸舞賛歌は言った。たぶんそういわれると思ったけど・・・。
そして私と戸舞賛歌は帰路に着いた。遠くにネオンが見える。
「・・・諦めるしかない・・・十四の私がまったく寒空に投げ出されたら生きていけない・・・。一度死んで希望を来世に繋ごう・・・。」
そう思ったものだった。

そして家に付くと、時計の音だがカチカチと居間に響いていた。不思議な静寂が居間を包み込んでいた。そこで戸舞賛歌が居間の大きな本棚を指差して
「ここにはこんなにいい本が居るじゃないか・・・。」
といったものだ。このとき、わたし戸舞賛歌の支配する居間の本棚以外に関心を向けたらこの家から追い出される運命を生きることになったのだ。この家は私の家ではなく私はこの居にいる権利を自覚してはならないのだ。この家は戸舞賛歌の家なのだから・・・。

以後私の帰るべき家、そして私の運命を紡ぎづつけてきた家は戸舞賛歌の私物であり私はこの家に関する権利の自覚や主張を許されなくなった。戸舞賛歌死去してかには中野廣策が戸舞賛歌の代わりにこの家を支配した。中野廣策も戸舞賛歌同様わたしにこの家に関する権利を自覚したり主張したりすることを許さなかった。しかしこの家は中野廣策の家ではない、中野廣策がこの家に権利を主張するんだったらわたしも中野廣策の家の権利を主張しよう。そして中野廣策の家から中野廣策を追い出して中野廣策を野まったくの寒空の下に投げ出してやろう。目には目をだ、復讐は正義だ・・・。
そして私は中野廣策のところに電話した。中野廣策は狼狽している様子だった。
「中野廣策、絶対に許さないし絶対に逃がさない。目には目をだ・・・」
こうして私は中野廣策を追いまわした。秋にまって朝夕はひんやりし始めた。
そして中野廣策が誰にも転居先を告げずに四半世紀以上過したこの町を去ったことを知ったのは冬の始まりだった。

その年も暖冬だった。冬の始まりだというのに春のようだった。中野廣策家にいくと、まったく別な家族がその家に住んでいた。
「もう中野廣策は私の生まれ育った家に来ることはないんだ・・・。」
とあらためて実感した。ふと空を見ると、あのころのように青く輝いている。それは青空という名前がつけられる以前の、創造のたえなる奇跡に輝いていた。
「やっと悪夢から醒めた。中野廣策というどろぼう大学教授を絶対に間違いのないすごい知的指導者だと自分自身に思い込ませてきた悪夢から・・・。」
そう実感した。
 
中野廣策というのは教養や学歴、大学教授の肩書きを花にぶら下げて威張っているセコくてミミッチイ男なんだけど、そんな男を「尊大な(エライ)知的指導者」と思い込まされること自体が不自然であり病的であり危険なことだった。さらにいえば戸舞賛歌というわがままなDV束縛男を立派なドイツ文学者、哲学者であり地域指導者と信じ込むほうもどうかしているといえばどうかしているのだ。だいたいドイツ文学者という偉くて尊大な知的指導者はただの虚像に過ぎなかったのだ。



↑中野廣策令嬢 みすずちゃん

戸舞家の人々 8 中野と湊にいいようにされた忍ぶ会

 そんなことで、中野廣策と湊周二主導で「ドイツ文学者、戸舞賛歌さんの偲ぶ会」が開催されることになった。そのうち私にも「戸舞賛歌事務局」という中野廣策が代表を務める謎の団体からツカイバシリを指示されるようになった。わたしにはこの流れを止めることは出来なかった。『戸舞賛歌さんを偲ぶ会』はこうして中野廣策と湊周二主導、私たち遺族は費用と労力負担というイカにもといった状態で開催された。さらに偲ぶ会では中野廣策の自慢の娘であり、高偏差値の一流大である四谷の情事大学を出ては今は一流企業南河内の質屋「久本」に勤めているいるみすずちゃんも出席者の前に出していろいろしゃべらさせていた。私は嫉妬と憎悪でどうにかなりそうだった。そありっだけの嫉妬と憎悪を込めて中野廣策の娘さんみすずちゃんをにらめつけたものだった。
 いうまでもなく買いの経費にはかなりの使途不明金があったし、会で出された高級ワインの残りはすべて中野廣策邸に運び込まれた・・・。

で会の翌々日、会に出席していた女性が三人やってきて、散々中野廣策の批判を展開していった。わたしはその中野廣策の批判に安易に乗らなかったが、この批判の大合唱の最中、中野廣策が門扉をあけて入ってきた。しかし中から自分の批判の大合唱が聞こえてくるのを聞いて呼び鈴を鳴らすことなく帰っていった。この様子を見て私は不安になった。中野廣策は自゛分に降りかかる火の粉・・・批判をかわすために私を悪者に仕立て上げるだろう・・・そして私に私が悪者になって中野廣策を庇うことを要求してくるだろう・・・私たちは戸舞賛歌の理不尽な支配に服従すねとこに慣れすぎていた。中野廣策の支配にはあの当時の私にはどうすることも出来なかった。あの当時の私は中野廣策にはまったく勝ち目はなかったのである。

 そして私の恐れている通りの状態になった。おそらく中野廣策発であろう私に対する誹謗中傷が渦巻き始めたのだ。私が戸舞賛歌をふくめた戸舞家・・・というところに居る資格はないという雰囲気が渦巻き始めていたのだ。私は戸舞賛歌ら反発して家を飛び出して東京に行ったものの戸舞賛歌が死んだ途端に身内ヅラしてやってきては戸舞賛歌の後の利益を独占しようとしている、そこに現れた正義のヒーローが中野廣策という構図だ。もちろん中野廣策のそんなシナリオに乗る人はまずいない。誰もが中野廣策は戸舞賛歌の偉業を食い物にしているだとか信用できない裏切り者として白い目でみはじめていた。しかしそうやって中野廣策が次第に窮地になればなるほど私たちは中野廣策に苦しめられ続けてきた。少なくとも私たち遺族は中野廣策に太刀打ちできない何かがあったのだ・・・。中野廣策はしばらくして戸舞邸にゃってきてはまた乗っ取ろうとする。誰が見ても戸舞賛歌の偲ぶ会は中野廣策に食い物にされた呆れたものだった。しかしそれでもどうしても中野廣策には何もいえなかった。中野廣策に支配されっぱなしだった。傍から見ればどうして私たちが中野廣策を突き放すこととが出来ないのだろうと不思議に思うかもしれないけど・・・。

寝ても起きてもわたしの中に中野廣策の声が響く。
「お前は戸舞家に居る必要はない。戸舞賛歌と戸舞家に関するすべての権限はボクにある。わかったね。」
としつこく私に思い込ませようとする声が聞こえる。
「ボクに都合の悪い事があったらお前の責任だ。悪いことはすべてお前の責任だ。そう認めて周囲に説明しない。わかったね。」
という気配が私たちのしゅういにただよい、そして締め付けてくる。中野廣策は戸舞賛歌と戸舞邸を乗っ取ろうとしている。私は遺族としてのすべての権利を中野廣策に譲らなければならない。それを正しいと思い込め、そして周囲にそう説明しろという有形無形の影響力が戸舞家そのものを支配していた。

「もうつかた。もうすべて中野先生に譲ってあげよう・・・。」
そんな弱音すらも出始めた。すると中野廣策は得意げにやってきては
「ここを教養の城、知識の御殿にしますから・・・。」
何ぞといい始める。

こうして夏が過ぎ、冬が来て、そしてまた春が来た。そして夏が来る。道で中野廣策に出会う。たわしとは裏腹に中野廣策は余裕の表情だ。どうして私たちは中野廣策に何もいえないのだろう・・・中野廣策にやられっぱなしなのだろう・・・。

「お父さん(戸舞賛歌)があんな青臭い小説を書くから中野廣策が信用できない裏切り者だっていうことがわからなかったんたせ。あんな青臭い小説を書くから・・・。」
と戸舞賛歌にあらためて憤りを感じた。あんな青臭い小説・・・それは戸舞賛歌の遺作となった長編小説「石久野電鉄株式会社の足袋」というものだ。どういう小説かというと、とにかくロマンロラン愛読者の戸舞賛歌らしく青臭い話だ。ようは職人の少年が領主のお姫様に一目ぼれすると言うオハナシで、一目ぼれした領主のお姫様を美化しまくったオハナシだ。私はこのオハナシを読んでいないとそれこそ中野廣策に
「お前はまだあの石久野電鉄の旅を呼んでいないのか!そんなやつかせここに居る資格があるのか!」
といわれそうで、無理して読んだけど、すぐにイヤになってしまった。しかしじつはこの青臭い小説を「すばらしい小説」と自分に思い込ませ続けることが中野廣策という裏切り者の正体を「すばらしい知的指導者」と思い込んでしまう落とし穴だったのだ・・・。
とにかくわたしはあらためて戸舞賛歌に憤りを感じた。
「あんな青臭い小説を書くから、中野廣策がどろぼう大学教授だっていうことがわからないんだ。あの人は・・・。」
そうおもうと、あんな青臭い小説のなかにどうしてわたしが中野廣策に支配されっぱなし、言いようにくいものにされっぱなしなのかその秘密を説く鍵があるように感じられてならなかった。そのときわたしは戸舞家に居たたまれずに市川市の安アパートに身を寄せていた。そんな私はデシンャに乗って吉祥寺までいき、そこで書店に入った。そこに戸舞賛歌の遺作「石久野電鉄の旅」が置いてあることを知っていたからだ。
そして書店の店頭で戸舞賛歌の遺作「石久野電鉄の旅」を紐解き始めた。ぶな減が実に不愉快だ。戸舞賛歌生前、イヤというほどこの青臭くてつまらない小説の内容は聞かされたし、この青臭くてつまらない小説の世界に引き込まれ、つき合わされ続けてきた。めまいがするほど不快だ・・・。そしてその不快さの中で、私が中学二年生の初秋の番の床を思い出した。

戸舞賛歌は居間で床から天井まである大きな書棚を指差して
「ここにはこんなにいい本があるじゃないか・・・。」
という。そして一冊の本を取り出し、私に
「」